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体罰の会◇掲示板
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現場の実状 投稿者:教員 投稿日:2013/03/26(Tue) 04:52 No.576   
長らく教師をやっておりますが、
教師が暴力をふるうのは怒って自制できていない場合であったり、
また鬱憤を人を制圧することで満たしていたり、というのがほとんどです。
生徒に恐怖を与えることを悦んでいるタイプもいました。
年下に高圧的で、上に媚びるようなタイプが多いです。
体罰と暴力の線引き云々以前の問題として、まずは教育者の育成を考えなければならないと思います。

無題 投稿者:三原西 投稿日:2013/03/23(Sat) 20:11 No.568   
生徒に暴力を振るっていた教師が校長になっていた。
担任していたクラスの生徒の中には、当時のいじめの記憶から抜け出せず、自殺した人もいた。
今も教師が先導したいじめの記憶のせいで精神科に通っている人もいる。
そんなヤツが校長になり教育を語る配布物を出していることに驚いた。

体罰の会さんに 質問です 投稿者:体罰うけてみれば 投稿日:2013/03/22(Fri) 15:18 No.563 ホームページ   
よくわからないので 教えていただきたいのですが、

TOP PAGE [体罰の会] 趣意書 の文面最後の方に、


それゆえ、この最高裁判決を踏まえて、現在の状況を打破して、教育の再生をはかるには、体罰禁止教の支配から我が国を解放して、教育に科学性を回復することです。そのための緊急の課題として、まずは学校教育法第11条但書の削除を実現することが必要です。その上で、体罰の方法や程度に関する法整備を実現して、教育の再生を実現せねばならないと確信します。



とあるのですが( 引用させていただきました )、


「教育に科学性を回復する」 の意味を教えていただけますか?
今まで、教育が科学的だったこと(時代)ありましたっけ?
と思いましたので。(科目としての科学なら ありますが)

つまり、体罰は科学的ということですか? ローレンツの科学 のことでしょうか??



また、体罰の会さん の趣意書によりますと、
‘ まずは学校教育法第11条但書の削除を実現してから、体罰の方法や程度に関する法整備を実現する‘ のお考えのようですが、

体罰の会さん として統一された体罰の方法や程度に関しての原案 は、お持ちですか?

原案お持ちでしたら、それを 体罰の会の前面に出して、
「学校教育法第11条但書の削除」 の署名を、多数集めてはいかがですか?


Re: 体罰の会さんに 質問です - 体罰うけてみれば 2013/03/23(Sat) 09:23 No.567 ホームページ
こちらHPの 「体罰に関するQ&A」 中で、Q11の回答後半に、



今の教師は体罰の仕方に習熟している人は皆無でしょう。

体罰を禁止したからです。

当然正しい体罰は出来ません。

それなら先生をトレーニングすればいいじゃあないですか。

先生だって進歩できるのですから。



 と 戸塚さんが回答していらっしゃいます。

「正しい体罰のトレーニング」内容はどういうものか、そのノウハウも、体罰の会さんから伺いたいです。


是非、コメント願います 投稿者:市民 投稿日:2013/03/21(Thu) 09:36 No.555   
大分市の市立中学校で撮影された、剣道部の外部コーチによる
「体罰」の映像が公表されました。

これは、あくまで「体罰」ですか?
生徒が自ら望んで受けている教育ですか?
一方的に殴られ、振り回されることの何処に「愛情」があると
言えますか?

是非コメントを願います。
尚、決して逃げないで下さいね?

Re: 是非、コメント願います - 体罰うけてみれば 2013/03/21(Thu) 10:42 No.556 ホームページ

こちらの下に、コメントを書かれている spankoさんが

「論理的な応戦が出来る」ようですので、こちらにもコメントいただけそうですね。


Re: 是非、コメント願います - spanko 2013/03/22(Fri) 00:53 No.561
> これは、あくまで「体罰」ですか?

私はこれは体罰だとは思いません。
単なる鬱憤晴らしです。

むしろこれを「あくまで「体罰」」と言い張るのはあなた方でしょ?

プロレタリア市民さん!


体罰を考える 投稿者:剣道家 投稿日:2013/03/21(Thu) 23:43 No.558   

 本日、ある大分県の中学校剣道部の外部指導者による体罰事件が報道された。あまりの暴力的指導に疑問を持たれた保護者が、ビデオ撮影した映像が全国に放映された。剣道指導者として、また指導者を育成する立場として、残念でならない。

 聞くところによると、日本のスポーツ現場は、様々な競技で同様な指導が行えわれているという。ご子息がソフトテニスをしていた保護者の話をお聞きしたことがある。試合中に、指導者がコートに入って殴る蹴るの暴行を選手に加えているそうだ。また、別の知人の方から娘さんのバレーボールの練習試合での出来事をご相談受けたことがある。自チームではなく、自チームの監督さんの先輩の相手チームの監督から、娘さんが試合中に暴行を受けたらしい。

 今、表に出てきている全柔連や大阪市立高校の事例は、ほんの氷山の一角のように思われる。いつから、日本のスポーツ界はそうなってしまったのか。

 多くの識者は、「今はそんな時代ではない」という。では、昔は、暴力的指導が容認されていたのだろうか。そんなことはない。現在のような暴力的指導が許されるようになったのは、実は最近である。少なくとも戦後だ。

 例えば、武道の稽古形態をみても、本来は師と弟子が一対一で技を伝授していた。そこに、現在のような暴力的指導が入り込む余地はない。弟子は師と相対して、師の技や心(求道的精神性)を学んだ。これが、長く続いた武道の教習形態である。武道とは、原初的には、最も「暴力的」な技である。なぜなら、武道(武術)の技は相手を殺傷するものだからだ。その武道が、文化として伝承されるためには、その暴力的要素を排除しなければならなかった。その一つの方法が「型」化である。だから、武道に暴力的指導があってはならない。それは、武道の文化性を否定することになる。

 そして、もう一つ重要な観点がある。それは、武道は本来勝敗ではなく、「技の洗練度」を課題としてきたということである。現代のスポーツ文化に染まっている方々にはわかりにくいだろうが、「技の洗練度」は勝敗とは無関係である。だから、競技の勝ち負けと「技」のレベルとは一致しない。江戸時代や明治中期くらいまでの武道を調べてみると明らかに「勝敗」とは異なる価値観があった。例えば、相撲が「勝敗」を第一義とするようになったのは最近である。明治中期ごろまでは、相撲は地元力士が勝つことが当たり前であったという。観衆は「勝ち負け」よりも。その「技の素晴らしさ」に拍手を送っていた。だから、明治中期ころまでの武道にはトーナメント試合は存在しない。一人が一度試合をするだけの組試合である。優勝者を決めるということがなかった。

 多少乱暴に言えば、勝敗を第一義とする「スポーツ」の考え方を日本に根付かせたのは米国の「占領政策」であると思っている。勝敗の究極は「生死」である。「勝敗」を第一義としないということは「生死」を第一義としないということなのだ。「生をあきらめ、死をあきらめる」という言説がある。「あきらめる」とは、「諦める」のではなく「明らめる」である。この言説は「勝敗」を第一義とするスポーツ文化からは生まれてこないと考えられる。

 日本の武道、そしてスポーツは、もう一度、身体運動文化の特性に回帰すべきでなないのか。武道もスポーツも、「勝敗」とは同価値の「技(技術)の洗練度」という価値観があったのだ。自分自身の「技」をひたすら磨くことで、求道的精神性(礼儀などの道徳的精神性ではない)が涵養されてきた。その、本来の身体運動文化のあり方に戻るべきである。武道・スポーツ関係者が受けている「洗脳」が解けることを祈るばかりである。

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