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◇体罰を考える◇

当会では体罰に関する記事を募集しています。
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  児相問題の解説(弁護士 南出喜久治)
Date: 2009-12-21 (Mon)
【児童相談所による児童拉致事件訴訟とその背景について】

1 本件事案の具体的説明
平成12年10月22日生の男子児童。平成19年4月に小学校入学。小学校側による児童の痣の発見と親権者による教育方針の説明、それに対する小学校側の賞賛。同年7月13日に児童の顎に痣があることを小学校側が確認し、静岡市児相へ虐待通告し、一時保護処分。同年8月30日に親権者が審査請求申立。同年9月25日に児相が静岡家裁に対して児童福祉法第28条1項1号の承認申立。同年12月10日に静岡家裁の承認審判。同月21日に親権者が即時抗告。平成20年2月4日に東京高裁が即時抗告の棄却決定。同年3月1日に市児相が一時保護を解除して児童養護施設入所措置決定と面会等制限措置決定。同年12月24日に親権者が静岡地裁に証拠保全申立。平成21年3月9日に静岡地裁が証拠保全決定。同年3月24日に証拠保全の執行。同年7月23日に東京地裁に国家賠償請求訴訟を提起。小学校、市児相、県児相と各裁判所の共同不法行為。一時保護から2年以上の間に、一度も児童との面会、通信が許されず、児童の生活状態などの照会を完全に拒否され、完全隔離となり親権の行使を実質的に剥奪。なほ、民事訴訟法234条の「証拠を使用することが困難となる事情」とは、具体的には、証拠の改竄、隠匿、破棄処分のおそれがあると判断される事情のこと。

2 原則と例外の逆転
僅少の例外を普遍化、一般化して例外を原則に転換させることはできない。平成18年度における児童相談所(児相)の児童虐待相談件数は37,423件。そのうち警察による摘発事件297件。これは0.79%の検挙率。それ以外の99.21%は正当行為としての「体罰」であつたことが推定され、これを否定することの立証責任は児相にある。目を覆ひたくなるやうな僅少で悲惨な虐待事件があることから、正当行為としての体罰自体を全否定する論法は、あたかも一部の警察官の不祥事があることを根拠に警察組織全体を犯罪組織と見なして全否定するといふ論法と同じ。

3 体罰の定義と合理主義(理性論)教育の破綻
体罰とは、児童の進歩(教育的成長)を目的とした有形力の行使。コンラート・ローレンツ(動物行動学、ノーベル賞学者)は「種内攻撃は悪ではなく善である。」ことを科学的に証明。体罰は種内攻撃の一種。「天の命ずるをこれ性と謂ふ。性に率ふをこれ道と謂ふ。道を修むるをこれ教へと謂ふ」(中庸)。本能は善。悪は理性の中にある。善悪の区別と定義(本能に適合するものが善、適合しないものが悪)。合理主義(理性論、理性絶対主義)の破綻。数学基礎論における論理主義の破綻。「帰納的に記述できる公理系が無矛盾であれば、自身の無矛盾性を証明できない(無矛盾ならば不完全)」(クルト・ゲーデルの不完全性定理)。

理性教育から本能教育へ。演繹法教育から帰納法教育へ。「井を掘るは水を得るが爲なり。學を講ずるは道を得るが爲なり。水を得ざれば、掘ること深しと云ども、井とするに足らず。道を得ざれば、講ずること勤むと云ども、學とするに足らず。」(講孟餘話・吉田松陰)。日清戦争での海軍の脚気死亡者はゼロ名に対し、陸軍では約4,000名が脚気で死亡し、日露戦争では、陸軍戦傷病死者約37,000名のうち脚気死亡者が28,000名といふ結果は、ドイツ医学(演繹法医学)のみが正しいと信じてゐた陸軍軍医総監の森鴎外(森林太郎)の頑迷さによる悲劇。この脚気問題を解決し兵食改革を果たしたのが、英国医学(帰納法医学)を学んだ高木兼寛。

本能の序列・自己保存(維持)本能<家族保存(維持)及び秩序維持本能<種族保存(維持)及び秩序維持本能<社会秩序維持本能<国家防衛本能。

4 民法と学校教育法における「体罰」の位置づけ
民法822条と学校教育法11条。「家庭体罰」と「学校体罰」。学校体罰の禁止は戦前にもあつたが訓示規定であつた。占領期に制定された学校教育法では、PTA制度、教育委員会制度の導入による「教育の民主化」といふ日本弱体化政策のために効力規定とした。しかし、学校体罰を但書で除外してゐるのは、本来的に体罰は懲戒権に含まれるがそれを例外的に行使できないといふ意味。従つて、本来、「体罰」は「教育(的措置)」である。熊本体罰事件(最判平21・4・28)「教育的指導の範囲」。

5 児童虐待防止法における「児童虐待」の定義
児虐法2条。明文上は家庭体罰(教育目的)を除外してゐないことによる拡大解釈と運用上の濫用。児虐法3条。「社会体罰」の禁止か? 「体罰」と「虐待」との相違、「体罰」と「教育的指導措置」(矯正措置)との区別が規定上は不明確である。

6 児福法33条の「一時保護」の実態
無令状。恣意的判断で運用。適正手続の保障なし。「一時」でも「保護」でもなく、実質的には「長期完全隔離」。面会禁止、通信禁止、照会禁止など。刑務所収容者の家族以下の処遇。親権の実質的な停止ないし剥奪。平成21年5月に法務省が「親権の一時停止」の制度を検討してゐることを発表したが、児相は既にその先取りとさらにその先の「親権剥奪」を実質的に行つてゐる。この一時保護の規定は、「家庭崩壊促進条項」である。特に、平成12年の児虐法制定施行後において一時保護の濫用が顕著となる。

学校と児相の一時保護のための連携強化。学校による児童の虐待虚偽申告の誤導など。

7 児童拉致を支へる予算制度と児童拉致の推進
静岡県の事例(平成19年8月分の支出負担行為資料)。児童相談所運営経費(政令市関連)予算額金2,789,349円、確定額金2,789,349円(同額)。内容は「児童福祉施設等事務委託料(8月分)」。内訳は「児童自立支援施設分 金2,172,340円(8人分、1人分=271,543円)、一時保護所分 金617,009円(12人分、1人分=51,417円)」。年間予算額金91,571,000円。1人1か月分=322,960円。

予算の完全消化のための拉致推進傾向。実質的には「拉致報奨金」。

8 児相の権限濫用を監視制御する機関の不存在と法制度の不備
オランダ亡命事件(平成21年1月18日、読売新聞など)大村市児相  拉致した児童(6歳、女児)を提携病院に託して薬漬けによる虐待事件(東京都小平児相)

一時保護をした児童を愛着障害、発達障害などと、ことさらに人格障害であると決めつけ、人格可塑性のある児童に成人と同等以上の投薬を行ふ。その背景には、一時保護の違法性を隠蔽するために、児童を薬漬けにして精神を破壊し、児童から児相に都合の良い証言(幻覚、妄想による発言)を引き出し、親権者側の虐待があつたかのやうに工作して、児相のなした行為を正当化することにある。

この事例では、@オーラップ、Aミラドール細粒、Bデパス、Cリスパダール、Dレキソタン、Eデプロメール、Fメプチン、Gオノン、Hルボックス錠、I重質(カマグ一般名 酸化マグネシウム(カマ)、Jレボトミン、Kタスモリン、Lベンザリン、Mラキソベロン、Nホクナリン、Oセルテクト、Pキュバール、Qアーテン、R強力レスタミンコーチゾンコーワ軟膏、S亜鉛華軟膏を継続的に大量投薬。このうち、特に、統合失調症等に対する向精神薬として使用され、その副作用として薬害依存性があるものは、A、B、C、E、H、J、Kの7種類。また、向精神病薬の副作用が生じうる薬害性パーキンソン症候群に対する薬はQ。つまり、副作用の防止するためにこれまた副作用のある薬を投与してゐる。小児に対する安全性が確立されてゐないものは、A、C(使用経験がない)、D、E(使用経験が少ない)、F、G、H(使用経験が少ない)、K、Q、R(発達障害のおそれあり)、S(調査未実施)の11種類。児童への投与は極めて危険性が高いものである。

人身保護法の適用外?(「法律上正当な手続によらないで、身体の自由を拘束されている者」に該当しない?)。行政事件訴訟法25条の執行停止の要件である「重大な損害を避けるため緊急の必要があるとき」に該当するか。児福法28条の家庭裁判所の承認がなされば司法判断を盾にした行政処分となる。家裁の後見的機能は全く期待できない。国家賠償法は児童自身の救済をしない。

このやうな児相の権限濫用の実態は氷山の一角であり、その原因は、児相の資質の低さにあるだけでなく、実効性ある児相の監視制御機関がなく、その法制度の不備によるものである。また、原告が管理するHP(http://www.boreas.dti.ne.jp/~h777m300/)など、児相による児童拉致の実態とそれによる家庭崩壊を指摘する警鐘がネット上で多く発信されてゐるにもかかはらず、マスメディアがこれに関心を示さないことが、児相の権限濫用による児童拉致の暴走に拍車をかけてゐると云へる。

(配布資料)
1 訴状
2 証拠保全決定
3 論文(児童相談所による児童の拉致事件etc)
(参照条文抜粋)
【国家賠償法】
第1条  国又は公共団体の公権力の行使に当る公務員が、その職務を行うについて、故意又は過失によつて違法に他人に損害を加えたときは、国又は公共団体が、これを賠償する責に任ずる。

2  前項の場合において、公務員に故意又は重大な過失があつたときは、国又は公共団体は、その公務員に対して求償権を有する。

【民事訴訟法】
第234条(証拠保全) 裁判所は、あらかじめ証拠調べをしておかなければその証拠を使用することが困難となる事情があると認めるときは、申立てにより、この章の規定に従い、証拠調べをすることができる。

【民法】
第822条(懲戒) 親権を行う者は、必要な範囲内で自らその子を懲戒し、又は家庭裁判所の許可を得て、これを懲戒場に入れることができる。
2 子を懲戒場に入れる期間は、六箇月以下の範囲内で、家庭裁判所が定める。ただし、この期間は、親権を行う者の請求によって、いつでも短縮することができる。
【学校教育法】
第11条 校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、文部科学大臣の定めるところにより、児童、生徒及び学生に懲戒を加えることができる。ただし、体罰を加えることはできない。
【児童福祉法】
第27条  都道府県は、前条第一項第一号の規定による報告又は少年法第十八条第二項 の規定による送致のあつた児童につき、次の各号のいずれかの措置を採らなけれ ばならない。
一  児童又はその保護者に訓戒を加え、又は誓約書を提出させること。

二  児童又はその保護者を児童福祉司、知的障害者福祉司、社会福祉主事、児童委員若しくは当該都道府県の設置する児童家庭支援センター若しくは当該都道府県が行う障害児相談支援事業に係る職員に指導させ、又は当該都道府県以外の者の設置する児童家庭支援センター若しくは当該都道府県以外の障害児相談支援事業を行う者に指導を委託すること。

三  児童を里親(保護者のない児童又は保護者に監護させることが不適当であると認められる児童を養育することを希望する者であつて、都道府県知事が、適当と認める者をいう。以下同じ。)若しくは保護受託者(保護者のない児童又は保護者に監護させることが不適当であると認められる児童で学校教育法 に定める義務教育を終了したものを自己の家庭に預 かり、又は自己の下に通わせて、保護し、その性能に応じ、独立自活に必要な指導をすることを希望する者であつて、都道府県知事が適当と認めるものをいう。以下同じ。)に委託し、又は乳児院、児童養護施設、知的障害児施設、知的障害児通園施設、盲ろうあ児施設、肢体不自由児施設、重症心身障害児施設、情緒障害児短期治療施設若しくは児童自立支援施設に入所させること。

四  家庭裁判所の審判に付することが適当であると認める児童は、これを家庭裁判所に送致すること。

2  都道府県は、第四十三条の三又は第四十三条の四に規定する児童については、前項第三号の措置に代えて、国立療養所その他政令で定める医療機関であつて厚生労働大臣の指定するもの(以下「指定国立療養所等」という。)に対し、これらの児童を入所させて肢体不自由児施設又は重症心身障害児施設におけると同様な治療等を行うことを委託することができる。

3  都道府県知事は、少年法第十八条第二項 の規定による送致のあつた児童につき、第一項の措置を採るにあたつては、家庭裁判所の決定による指示に従わなければならない。

4  第一項第三号又は第二項の措置は、児童に親権を行う者(第四十七条第一項の規定により親権を行う児童福祉施設の長を除く。以下同じ。)又は未成年後見人があるときは、前項の場合を除いては、その親権を行う者又は未成年後見人の意に反して、これを採ることができない。

5  第一項第三号の保護受託者に委託する措置は、あらかじめ、児童の同意を得、かつ、一年以内の期間を定めて、これを採らなければならない。

6  都道府県は、委託の期間が満了したときは、さらに、児童の同意を得、かつ、一年以内の期間を定めて、児童の保護を保護受託者に委託することができる。

7  都道府県知事は、第一項第二号若しくは第三号若しくは第二項の措置を解除し、停止し、若しくは他の措置に変更し、又は前項の措置を採る場合には、児童相談所長の意見を聴かなければならない。

8  都道府県知事は、政令の定めるところにより、第一項第一号から第三号までの措置(第三項の規定により採るもの及び第二十八条第一項第一号又は第二号ただし書の規定により採るものを除く。)若しくは第二項の措置を採る場合、第一項第二号若しくは第三号若しくは第二項の措置を解除し、停止し、若しくは他の措置に変更する場合又は第六項の措置を採る場合には、都道府県児童福祉審議会の意見を聴かなければならない。

9  都道府県は、義務教育を終了した児童であつて、第一項第三号に規定する措置のうち政令で定めるものを解除されたものその他政令で定めるものについて、当該児童の自立を図るため、政令で定める基準に従い、これらの者が共同生活を営むべき住居において相談その他の日常生活上の援助及び生活指導を行い、又は当該都道府県以外の者に当該住居において当該日常生活上の援助及び生活指導を行うことを委託する措置を採ることができる。

第28条  保護者が、その児童を虐待し、著しくその監護を怠り、その他保護者に監護させることが著しく当該児童の福祉を害する場合において、第二十七条第一項第三号の措置を採ることが児童の親権を行う者又は未成年後見人の意に反するときは、都道府県は、次の各号の措置を採ることができる。
一  保護者が親権を行う者又は未成年後見人であるときは、家庭裁判所の承認を得て、第二十七条第一項第三号の措置を採ること。

二  保護者が親権を行う者又は未成年後見人でないときは、その児童を親権を行う者又は未成年後見人に引き渡すこと。ただし、その児童を親権を行う者又は未成年後見人に引き渡すことが児童の福祉のため不適当であると認めるときは、家庭裁判所の承認を得て、第二十七条第一項第三号の措置を採ること。

2  前項の承認は、家事審判法の適用に関しては、これを同法第九条第一項 甲類に掲げる事項とみなす。

第33条  児童相談所長は、必要があると認めるときは、第二十六条第一項の措置をとるに至るまで、児童に一時保護を加え、又は適当な者に委託して、一時保護を加えさせることができる。
2  都道府県知事は、必要があると認めるときは、第二十七条第一項又は第二項の措置をとるに至るまで、児童相談所長をして、児童に一時保護を加えさせ、又は適当な者に、一時保護を加えることを委託させることができる。

3  前二項の規定による一時保護の期間は、当該一時保護を開始した日から二月を超えてはならない。

4  前項の規定にかかわらず、児童相談所長又は都道府県知事は、必要があると認めるときは、引き続き第一項又は第二項の規定による一時保護を行うことができる。



【児童虐待の防止等に関する法律】 (平成十二年五月二十四日法律第八十二号)
第2条(児童虐待の定義) この法律において、「児童虐待」とは、保護者(親権を行う者、未成年後見人その他の者で、児童を現に監護するものをいう。以下同じ。)がその監護する児童(十八歳に満たない者をいう。以下同じ。)について行う次に掲げる行為をいう。
一  児童の身体に外傷が生じ、又は生じるおそれのある暴行を加えること。 

二  児童にわいせつな行為をすること又は児童をしてわいせつな行為をさせること。 

三  児童の心身の正常な発達を妨げるような著しい減食又は長時間の放置、保護者以外の同居人による前二号又は次号に掲げる行為と同様の行為の放置その他の保護者としての監護を著しく怠ること。 

四  児童に対する著しい暴言又は著しく拒絶的な対応、児童が同居する家庭における配偶者に対する暴力(配偶者(婚姻の届出をしていないが、事実上婚姻関係と同様の事情にある者を含む。)の身体に対する不法な攻撃であって生命又は身体に危害を及ぼすもの及びこれに準ずる心身に有害な影響を及ぼす言動をいう。)その他の児童に著しい心理的外傷を与える言動を行うこと。

第3条(児童に対する虐待の禁止) 何人も、児童に対し、虐待をしてはならない。
【人身保護法】
第2条(違法拘束救済の請求権) 法律上正当な手続によらないで、身体の自由を拘束されている者は、この法律の定めるところにより、その救済を請求することができる。
2 何人も被拘束者のために、前項の請求をすることができる。

【行政事件訴訟法】
第25条(執行停止) 処分の取消しの訴えの提起は、処分の効力、処分の執行又は手続の続行を妨げない。
2 処分の取消しの訴えの提起があつた場合において、処分、処分の執行又は手続の続行により生ずる重大な損害を避けるため緊急の必要があるときは、裁判所は、申立てにより、決定をもつて、処分の効力、処分の執行又は手続の続行の全部又は一部の停止(以下「執行停止」という。)をすることができる。ただし、処分の効力の停止は、処分の執行又は手続の続行の停止によつて目的を達することができる場合には、することができない。

3 裁判所は、前項に規定する重大な損害を生ずるか否かを判断するに当たつては、損害の回復の困難の程度を考慮するものとし、損害の性質及び程度並びに処分の内容及び性質をも勘案するものとする。

4 執行停止は、公共の福祉に重大な影響を及ぼすおそれがあるとき、又は本案について理由がないとみえるときは、することができない。

5 第2項の決定は、疎明に基づいてする。 

6 第2項の決定は、口頭弁論を経ないですることができる。ただし、あらかじめ、当事者の意見をきかなければならない。

7 第2項の申立てに対する決定に対しては、即時抗告をすることができる。

8 第2項の決定に対する即時抗告は、その決定の執行を停止する効力を有しない。

  児童相談所による児童の拉致事件(弁護士 南出喜久治)
Date: 2009-10-10 (Sat)
− 戸塚ヨットスクール「ういんど」より−

 教員の生徒に対する懲戒権のうち、「体罰」を禁止した学校教育法第十一条但書とは異なり、民法第八百二十二条に定める親権者の子供に対する懲戒権には、「体罰」を除外してゐない。ところが、平成十二年に「児童虐待の防止等に関する法律」が制定され、その第二条第一号によると、保護者が「児童の身体に外傷が生じ、または生じるおそれのある暴行を加えること。」を身体的虐待と定義したことから、親の体罰を取り巻く様相が一変した。
 ことに、児童福祉法第三十三条が、児童相談所長に、必要があると認めるときは児童を「一時保護」する権限を附与したことと相俟つて、事態はさらに深刻となつてきてゐる。端的に言へば、児童相談所による児童の「拉致」事件が増えてゐることである。
 何故、そのやうなことが起こるのか。その原因は、大きく区分すれば二つである。一つは思想的なものであり、もう一つは組織防衛的なものである。
 まづ、思想的なるものとしては、戸塚宏校長が指摘するとほり、「体罰」即「虐待」とする合理主義(理性論)の思想である。これにより、たとへば、躾けのため尻を叩いて痣ができれば、これを虐待と断定し、子供を学校から帰宅させずにそのまま「一時保護」と称して拉致してしまふ。これは、親の体罰による懲戒権の行使を全面的に否定する理性論であつて、これが教育を崩壊させた元凶であるが、現在ではさらにその傾向が加速してきたのである。
 個人主義といふ合理主義が生んだ史上最大の宿痾は、ルソーによつて完成したのであるが、エドマンド・バークは、フランス革命を目の当たりにし、『フランス革命についての省察』を著して、「御先祖を、畏れの心をもってひたすら愛していたならば、千七百八十九年からの野蛮な行動など及びもつかぬ水準の徳と智恵を祖先の中に認識したことでしょう。」「あたかも列聖された祖先の眼前にでもいるかのように何時も行為していれば、・・・無秩序と過度に導きがちな自由の精神といえども、畏怖すべき厳粛さでもって中庸を得るようになります。」として、フランス革命が祖先と伝統との決別といふ野蛮行為であることを痛烈に批判した。そして、バークは、ルソーを「狂へるソクラテス」と呼び、人間の子供と犬猫の仔とを同等に扱へとする『エミール』のとほりに、ルソーが我が子五人全員を生まれてすぐに遺棄した事件に触れて、「ルソーは自分とは最も遠い関係の無縁な衆生のためには思いやりの気持ちで泣き崩れ、そして次の瞬間にはごく自然な心の咎めさえ感じずに、いわば一種の屑か排泄物であるかのように彼の胸糞悪い情事の落し子を投げ捨て、自分の子供を次々に孤児院へ送り込む」とその悪徳と狂気を糾弾した。また、イボリット・テーヌは、「ルソーは、奇妙、風変りで、しかも並すぐれた人間であったが、子供のときから狂気の芽生えを心中に蔵し最後にはまったくの狂人となっている」「感覚、感情、幻想があまりにも強すぎ、見事ではあるが平衡を失した精神の所有者であった」と評価した。
 このルソーの人格の著しい歪みと人格の二重性は、ルソーが重度の精神分裂症と偏執病(パラノイア)であつたことによるものであり、犬猫の仔が親に棄てられても立派に育つので人間の子供も同じにするとのルソーの信念は、十一歳から十六歳にかけて親のない浮浪児であつたために窃盗で生活してきたことの経験からくる怨念による転嫁報復の実行であつたらう。このやうな反吐の出る人でなしの思想が人類の未来を切り開く正しい考へであるとする妄信が現代人権論であり、おぞましい悪魔の囁きに他ならないが、これを真に受けて実践してゐる行政の出先機関が、まさにこの児童相談所なのである。
 また、児童相談所には、この思想的なもの以外に、組織防衛的な動機により、児童の拉致を繰り返す。それは、組織の自己保存本能とでもいふべきものである。一時保護といふ児童拉致を繰り返すことによつて「実績」を積み重ね、年々予算を拡大して組織維持と増殖を図らうとする不純な動機がある。
 このやうな児童相談所の活動は、子供を家庭から切り離し、家族の解体を促進させる。ロシア革命は、まさにそれを目指した革命であつた。レーニンは、法律により家族制度を廃止し、家族制度存続の一翼を担ふ養子制度をも廃止した。それは、エンゲルスの『家族・私有財産および国家の起源』に基づき、廃絶すべき私有財産制度が家族制度によつても支へられてゐる構造であるとされたからである。この考へは、ルソーからフーリエに引き継がれた家族制度解体論に由来するものであるが、特に、レーニンを支へたアレクサンドラ・ミハイロヴナ・コロンタイといふ女性革命家の貢献が大きい。家族制度は、封建時代の産物であり、かつ、資本主義の温床であるとした上で、資本主義社会における女性労働者の増加により家族の解体が進み、共産主義社会では、さらにそれが促進され、家事と育児の社会化によつて女性は解放されて家族は消滅するとする女性解放論を唱へて事実婚を奨励した。
 しかし、その結果、ソ連は一体どうなつたのか。家族の解体に伴ふ性風俗の紊乱、そして、少年の性犯罪や窃盗事犯の増加をもたらし、堕胎と離婚が増加して出生率の低下を招いた。また、その原因の背景には、第一次世界大戦やロシア革命によつて大量に生じた孤児の存在もあつた。そのため、スターリンは、昭和元年に孤児の救済を目的とした養子制度を復活させ、さらに、昭和十九年には、ついに家族制度を廃止した法律を廃止して、逆に家族制度の強化する方針に転換したのである。家族制度は、国家制度との相似性があることから、家族の解体は伝統国家の解体を決定づける。それを断念したときから、革命は挫折したことになつたのである。同様に、中共でも、毛沢東の文化大革命は、毛沢東の失政を隠蔽するために紅衛兵が「造反有理」を掲げて子が親を告発糾弾することを奨励し、家族崩壊を推し進めたものであつたが、当然のことながら破綻した。
 このやうな歴史に学べば、現在の児童相談所の存在は、個人主義による家族の解体を目指す革命組織に等しい存在であることが解る。確かに、目を覆ひたくなるやうな児童虐待は戦後著しく増加した。その原因は、占領政策による家族解体にあり、そのやうな「犯罪行為」に対しては警察力で対応しなければならないし、これに児童相談所が対応できる能力も意思もあるはずがない。そのために、児童相談所は、「児童虐待」でないものを「児童虐待」として仕立て上げなければ組織増殖ができないので、児童拉致を繰り返し、益々家庭崩壊に拍車をかける。それゆゑ、我々は、このやうな児童相談所を速やかに解体させ、児童拉致事件の根本解決によつて祖国を再生させなければならないのである。

  子どものための体罰は教育(戸塚ヨットスクール校長 戸塚宏)
Date: 2009-08-02 (Sun)
罰は子供を強くするため、進歩させるために行なわれます
「しかるよりほめろ」では子供は強くなれません
 では、「体罰」とは一体何でしょうか? 悪いことをしたので罰を与える・・・のではありません。
体罰とは、相手の進歩を目的とした有形力の行使です
 ポイントは「相手の進歩を目的とした」にあります。体罰は相手の進歩を目的とする。目的が善ですから体罰は「悪」ではなく「善」です。決して自分たちの欲望を満たすためであってはなりません。イライラしたかといって子供を殴るのは、体罰ではなく虐待になります。虐待は、自分が利益を得る為なのであって、目的が一八〇度違います。体罰による利益は子供が得るのであって、自分であってはなりません。

 第一に、 相手の進歩を目的としているかどうか。次に、問題となるのは、体罰の使い方です。使い方や量を誤ると暴力になり得るからです。教育において体罰は悪くない、必要だがこの使い方を間違ってはいけない。ハード(戦略)として体罰は教育上必要だが、これを応用使用するソフト(戦術)としての使い方を間違っては単なる暴力や虐待となってしまうということです。

 日本でも以前は、進歩を促す様な体罰の中で子供が強く育ってきました。
このような体罰により自ら精神的に進歩し仲間に加わり、社会の一員としての人間性を身につけてきました。

人間は「快を求め不快を避ける」 行動原理があります
 不快があると、これを取り除こうとして行動を起こします。体罰とはこの「不快」を発生させてやるものです。快は心地よいので、その場に安住して動こうとしません。不快の状態になるとこれを避ける為に動かざるを得なくなります。進歩する為には不快が必要なのです。

日本の戦後教育では、子供に「不快」を発生させるべきではないという考えが主流になってしまいました。叱ってはいけない、ほめて育てろと。木登り等の遊びを禁止しました。危険だからと。ナイフの使用も禁止しました。手を切る危険があるからと。 徒競走でも差がつかないようにと妙な配慮がなされている。危険・恐怖・他の子と同じでないといった状態も「不快」の状態です。子供から、この「不快」を奪ったことで、結果として、子供たちをどんなに不幸にしたことか。
 戦後の子供たちがひ弱になり、生命力が衰弱したのは、子供から「不快」を遠ざけた為なのです。

本能は善です悪ではありません
 生物が種の保存を出来るのは本能によります。人間の本能が間違っていたら、とっくに人間は滅びていたでしょう。本能とは「生物が系統発生的に獲得した、行動のプログラム」。この意味で本能は絶対的に正しいのです。「悪」ではありません。本能は「善」です。本能は発現と抑止の二つで成り立っています。人類が存続出来たのも、無軌道な行動を抑止することが出来たからです。よくいう「野獣のような犯罪者」というのは、抑止の本能が弱い人です。正しい善の本能が働かずに本能が虚弱な人です。

 狂う理由として二つあります。一つはトレーニングが出来ていないので虚弱な本能である場合。基礎精神力といえる本能が弱くなると抑制が出来ません。この頃はやりの訳のわからぬ犯罪がこれに当たります。もう一つは、欲深い理性が本能の抑制をとり除いてしまう場合です。
 ほとんどの本能は刺激に応じて発現するものです。ですから、本能が健全に働くような環境を子供に与えなくてはいけない。
 「悪」は理性の中にしかありません。理性は欲望によって本能を曲げてしまいます。昔からある犯罪はこのタイプです。我々も日々、大なり小なりこれを行なっています。
 このように、本能は生まれながらに備わっている善ですが、ただ放っておけば健全に働くというものではありません。子供の時、適切な罰を受け、対人的刺激が与えられないと、本能の力がなく、生物としての生命力のない人間となってしまいます。現代の子供たちが深刻な状況にあるのは、「本能」の弱さに原因があります。本能を強くしてやれば、子供の抱える問題の多くは解決出来るのです。そして、その本能を強くするには、体罰がきわめて効果的であります。この本能の基盤となっているのが脳幹です。
 人間の喜怒哀楽の感情、寒さ暑さへの反応、発憤・意欲・我慢といった内的な反応を伴った行動は全て脳幹から発信、指示されています。
 肉体的、精神的な文明病は脳幹の虚弱により生じます。人間の全ての理性的思考をコントロールすると言われる大脳新皮質の問題でなく、動物的・生物的なものを司る脳幹の虚弱さに問題があります。それが本能の弱さの原因となっています。

驚愕→恐怖→恥→怒り→進歩
本能を強くするのに最も有効な体罰は、まず、驚愕・恐怖・恥・怒りに始まり進歩への行動を起こさせます。誰しも体罰を好むわけではありません。しかし、これは言葉では無理なのです。
体罰を受けると驚愕・恐怖が起こります。そして恥・怒りへと変化して進歩への行動を起こさせます。
 恥は進歩に大きな役割を果たしま
す。驚愕は行動の変更、恐怖は安定、恥は進歩の意志をつくり、怒りは立ち向かう行動を起こさせ、進歩します。

 ですから、恥は「善」です。大人は子供の恥をかく能力を高めてやらなければなりません。大恥をかけば大きく進歩する。恥は自分の進歩の為に発生します。これを手伝うのが「体罰」ですが、そこで自分が行動を起こさなければ進歩はありません。自分の力でしか進歩は出来ないのです。行動は目的を持っています。目的を達成したとき快感が発生します。この快感を幸福と呼びます。幸福も自分の力でしかつかめません。進歩を目的とする体罰は、言い換えれば、幸福を目的とします。自分が行動することなしに幸福になることはないのです。ニートは目的を達成しても快感が発生しません。だから働きません。小学校時代の精神の創りそこないが原因なのです。

 弱い子供は恐怖を逃げに使ってしまいます。恐怖を進歩に使うことが出来ずに恐怖のままで終わってしまって、どう逃げるかと頭をかかえて嵐の吹きすぎるのを待とうとします。登校拒否、引きこもり、非行になります。
また「罪の意識のない」問題人間はなぜ出来上がったのでしょうか。子供の時に群の中で「罰」を受けるような対人的な刺激を経験しなかった、体罰を受けて精神的進歩を経験することがなかったからです。肉体は勝手に成長しますが、精神は進歩させなくてはなりません。この進歩という訓練がなされないと肉体と精神がアンバランスな人間となって、様々な問題が生じるのです。このトレーニングは大人になってからでは遅いようです。

 教育の目的は「正しく・強く・安定した理性」を創ることです。その為には理性の土台である本能をまず確立しなければならないのです。体罰は教育上の戦略です。長期的な戦略的な行為ですから、「かわいそう」等の戦術的な今の感情で止めてはいけません。体罰は信念、自信を持って行なわねばなりません。
 
 このように、本能は「善」であり、体罰も「善」です。一方「理性」の中には「悪」が存在します。理性の中に諸々の欲望などの悪が混じると、罰し方により体罰は悪になり得ます。罰を与える方は罰し方のトレーニングも必要になってきます。
 「褒めてのばせ」では進歩をしようとする意志が生まれません。適切な体罰により不快感を発生させ、この不快感を避けようとする「自らの行動による進歩」がありません。現代の子供は「褒めてのばせ」の犠牲者と言えます。
 
 こう見てくると、子供は「体罰を受ける権利」があります。その権利を剥奪された結果としての重大な問題が現在の子供たちに起きているとも言うことが出来ます。そして、小学校時代にこのトレーニングを受けなかった子供が長じると様々な問題が生じます。大きくなってからでは、おそくなってしまう。これは子供にとって大変不幸なことです。
一生の問題ですから。
 教育における「相手の進歩を目的とした体罰」の復活はこのように重大な意味を持っているのです。
 
 法律で体罰が禁止されている国は二五ヶ国に過ぎません。そのうちアメリカでは三十州が体罰を容認しています。イギリスでは伝統的に体罰を容認していましたが、禁止で学校があれた為復活の議論が続いています。 
 
 現行の学校教育法第十一条は「【学生生徒等の懲戒】 校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、文部科学大臣の定めるところにより、学生、生徒及び児童に懲戒を加えることができる。ただし、体罰を加えることはできない」と定めています。体罰は教育であるが、これを行使してはならないとしています。つまり、体罰という教育を受ける権利を奪っているわけです。憲法で保証された教育の権利を奪う程の理由とは何だったのでしょうか。今日では、教室の片隅や廊下に立たせることも、体罰として禁じられています。私たちは学校教育法のこの条項を撤廃し、今後体罰について大いに議論・研究して、「進歩を目的とした体罰」が行なえるような教育正常化を実現する為に、国民運動を展開しようではありませんか。
    
  参考文献
   「本能の力」戸塚宏 新潮新書

  教育と体罰(主幹研究員 青柳武彦)
Date: 2008-11-15 (Sat)
要約

 子供たちに効果的にしつけを行い、かつ社会人としての基本的な約束事を教えこむことは極めて重要なことであるが、最近はそれがあまりうまく行なわれていない徴候が多く現れている。子どもの大脳の神経生理学的な発育程度に応じた、最適の教育手段を通じてこれを行う必要があるが、愛情に裏付けられた「良い体罰」は、極めて有効な教育手段たり得るのである。ただし、体罰を与えるタイミング、程度、事後ケア等について十分に配慮しなければならない。

 しかし、日本においては学校教育法によって体罰が一律に禁止されている。そのため教師が体罰についてノウハウを研究したり、それを身につけたりする機会は全くない。そのため「悪い体罰」が後を絶たないという現実がある。早急に一律な体罰禁止を廃止すべきである。

第1章 体罰の一律禁止

学校教育法

 現状では「良い体罰」も「悪い体罰」も一律に禁止されている。そもそも「良い体罰」などというものは存在しないという考え方である。学校教育法第11条には次のとおりに定められている。

「校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、監督庁の定めるところにより、学生、生徒及び児童に懲戒を加えることができる。ただし、体罰を加えることはできない。」

 さらに1949年8月2日に法務庁(当時)は次の通達を発表している。

「1.用便に行かせなかったり、食事時間が過ぎても教室に留めておくことは肉体的苦痛を伴うから体罰となり、学校教育法に違反する。
2.遅刻した生徒を教室に入れず、授業を受けさせないことはたとえ短時間でも義務教育では許されない。
3.授業時間中、怠けたり、騒いだからといって生徒を教室外に出すことは許されない。教室内に立たせる場合には体罰にならない限り懲戒権内として認めてよい。
4.人の物を盗んだり、壊したりした場合など、こらしめる意味で、体罰にならない程度に、放課後残したりしても差し支えない。
5.盗みの場合などその生徒や証人を訊問することはよいが、自白や供述を強制してはならない。
6.遅刻や怠けたことによって掃除当番などの回数を多くするのは差し支えないが、不当な差別待遇や酷使はいけない。
7.遅刻防止のための合同登校はかまわないが軍事教練的色彩を帯びないように注意すること。」

文部科学省の指導

 最近の文部科学省の見解は、文部省初等中等教育局教務関係研究会『教務関係執務ハンドブック』1によると次のとおりである。

 「体罰とは、物理的行為によって身体に侵害を加える場合および生徒にとって社会通念上許されない程度の肉体的苦痛を生じさせるものである。ただし、身体に侵害を加える行為がすべて体罰として禁止されるわけではない。傷害を与えない程度に軽く叩くような行為は、父兄が子供に対して懲戒として通常用いる方法であり、校長および教員が単なる怒りに任せたものではない教育的配慮にもとづくものである限り、軽く叩くなどの軽微な身体に対する侵害を加えることも事実上の懲戒として許される。つまり時には、叩くことが最も効果的な教育方法である場合もあり、いわゆる「愛の鞭」として許される程度の軽微な身体への行為ならば行っても差し支えない。しかし、同時に心身の未発達な生徒の人権の保護についてはあくまで慎重を期さねばならない。たとえ教育者としての愛情から出た行為であっても傷害を与えるようなものではなくても、なるべく身体の侵害と受け取られるような行為は避けるように努力することが望ましいといえよう。」

 要するに「軽く叩く」程度以上はダメヨ、と言っているわけだ。こんな腰が引けた情態では、教師は迫力をもって叱ることが出来ないから、しつけも何もできたものではないと筆者は思うのだが、どうであろうか。筆者はこうした、子供の人権の誤った尊重が、最近のしつけの全く出来ていない子供たち、倫理観が欠如した子供たち、浮浪者を殴り殺したり、普段は良い子だったのが突然に親をバットで殴り殺したり、わけもないのにバスジャックをしたりする子供たちがたくさん出てきている原因の、全てではないにしても一つではないかと考えている。衰弱した「新しい脳」と、病んだ「古い脳」に支配されてしまっている子供たちを見る思いである。

「新しい脳」と「古い脳」

 「新しい脳」とは大脳新皮質を意味し、人間の知性や思考能力を担当している。発生学的にも発育学的にも一番新しく(最後に)形成されるのでこの名前がある。人間は「新しい脳」を使って理性的にものを考え、常に冷静に行動をとる知的存在であると考えられている。少なくとも、そのような姿(新しい脳・人間)を人間の望ましき姿として把握し、それに反するような考え方や行動をするものを反倫理的であるとして排してきた。

 「古い脳」とは大脳皮質のうちの新皮質部分を除いた中間部から深部の部分をいう。大脳辺縁系と称し、辺縁皮質の梨状葉、海馬、帯状回、扁桃体、等がある。間脳の一部である視床下部をも含んでいる。「古い脳」には個体維持の基本的な仕組みを維持する機能がある。反射運動、人間の無意識の反応、基本的情動などはすべてこの「古い脳」が担当している分野である。「古い脳」はまた内臓にも働きかける。また間脳の視床下部にも働きかけて自律神経の働きやホルモンの分泌の調整も行う。

 最近の神経生理学によれば、人間は大人でも子供でも、常に理性的に考え行動しているように見えても、実は無意識のうちに「古い脳」の大脳辺縁系に支配されてしまっている部分が極めて大きいとのことである。それは倫理的か非倫理的かという問題を超越した人間の自然な存在のありようである。教育と体罰の問題を考える時には、このような視点を併せ持つことが必要である。

体罰はなくならない

 体罰は禁止されてはいるが、教育の現場においては体罰に類する行為はかなり行われており、トラブルは後を絶たない。保護者の方にもそれを容認する空気がある。ただし表立って問題になった場合は、法律に明示的に体罰禁止がうたわれていることから、たいてい教師の方が処分されることとなる。

 公立学校で、体罰ではないかと問題視されて学校が正式に調査した事件の発生件数は、1998年及び99年にはそれぞれ1010件、990件あった。ほぼ横ばい状態である。私立学校の場合は、これよりもはるかに多いだろう。

 教育の現場においては、体罰に断固反対する教師たちが大多数を占めている。中には「徹底的に話しあうべきである」などという、空想的平和主義者みたいなせりふを繰り返す教師もいる。当の教師は、それで効果のあるしつけや教育が出来ているのか甚だ疑問である。

 筆者は、決して暴力を容認しているわけでも児童虐待をしても良いといっているわけでもない。不適切な体罰は絶対によくないのである。しかし、教育的指導の手段から、適切な体罰まで除いてしまうのはもっと良くないと考えているものである。もちろん何が適切で何が適切でないかは、非常に難しい問題である。これを解決するためには多くの研究と研修によるノウハウの蓄積が必要なのだ。換言すれば、そういう蓄積がないから不適切な体罰がはびこって後を絶たないのである。「一律な」体罰禁止を廃止しない限り「不適切な」体罰はなくならないのだ。

第2章 体罰の妥当性

人間社会の基本的ルールをどう体得させるか

 子供にとって家庭や学校は、将来の社会人として生きてゆくための基本的な約束事を学ぶところであり、決して牧歌的保護を行う聖域ではない。親や教師は、人間社会における基本的な規範を厳しく教え込み、きちんとしたしつけをつけてやるべきであり、そうすることが子供に対する真の愛情である。これを放棄することは、子供の将来に対する責任を放棄することを意味するので、ほとんど犯罪に等しいことである。

 ところが、このようなしつけを行ったり基本的な約束事を教え込むのに、説明や説得をもって行なう、すなわち「新しい脳」に働きかけるのは、不可能とまではいわないが神経生理学的及び発達心理学的に見て困難かつ非効率的なのである。なぜならば、多くの場合それは知識や理解力の問題ではなく、感性やほとんど反射的な本能的な判断力の問題だからである。しつけをつけたり、人間社会の基本的な約束事を学ばせたりするために働きかけなければいけないのは、実は「新しい脳」の大脳新皮質ではなく「古い脳」の大脳辺縁系なのだ。

古い脳を鍛える

 こどもの「古い脳」にアクセスする為には言葉による論理的説得はほとんど役にたたない。「古い脳」にアクセスする手段は、第一にマルチメディア情報を駆使したイメージ思考を活用すること、及び第二に、親や子、教師と生徒の間の「古い脳」同士の交流を行うことである。それは時に感情的ともいえるほどの裸のぶつかり合いになる。当然、手が出たりしてしまうこともあるに違いない。

 「古い脳」に影響を与えることが目的なのだから、感情的になっても良いのだ。むしろ感情的にならないで相手の「古い脳」に影響を与えることは出来ないとさえいってよい。子供たちが教師に向かって、「その反抗的(?!)な目つきは何だ、口惜しかったら殴ってみろよ、すぐ教育委員会にいいつけてやる、お前は首だ」などといって、教師を蹴り上げるなどということが現実に起きている時に、怒りもせずにおめおめと説得に努めるのは決して教育的とはいえない。そのような一方的な関係は実社会では決して赦されないからである。実社会で上司にこんな口をきいたら一辺に首である。本気で怒って容赦なく殴りつけて思い知らせることが、子供の将来のために必要なのだ。

 思いっきり殴られると子供は痛いし、精神的にもショックを受けるから大いに傷つく。子供の「新しい脳」はもちろん、そんなことは容認できない。だから不貞腐れてプーッとふくれる。しかし、殴られた痛さに伴う不快感は「古い脳」の扁桃体にちゃんと登録され、帯状回に影響を与えて「今度やるとヤバイから止めよう」と、無意識のうちに抑制の動機づけが生じる。こうしたことの繰り返しの過程で形成されるニューロンのネットワークが、叱られるもとになった行動や考えを担当したニューロンのネットワークと融合一体化して、無意識のうちに抑制機構(Inhibition System)が構築されるのである。

 同時に自分の行為や考えがそのようなショックに匹敵するような重大なルール違反なのだということを理屈抜きに体で、つまり「古い脳」で会得するのである。しかし、子供の「新しい脳」は納得しているわけではない。では、納得ベースでの働きかけが可能な、つまり体罰が必要ない程度に精神的能力が成熟するのは何歳頃なのだろうか。

連合野の成熟時期

 ニューロンが育つにしたがい、その神経繊維を包む鞘のようなシュヴァン鞘(Schwann's sheath)という組織が出来てくる。髄鞘(ずいしょう)ともいう。成熟期になると神経繊維をいくつもの鞘が並んで巻きついた状態がほぼ全長にわたって続くようになる。これを有髄化といい、ニューロンはシュヴァン鞘が形成されてはじめて十分な機能を果たすことができるといえる。ちなみに有髄化前の神経の信号伝送速度はたったの約1m/秒であるのに比して、有髄化後のそれは約100m/秒である。なんと100倍になるのだ。

 そこでシュヴァン鞘を染色することにより、脳の各部分のニューロンの有髄化の程度、すなわち成熟度を測定してみると、「原始脳」の脳幹と小脳が一番早く有髄化することが判る。それから「古い脳」の大脳辺縁系に及び「新しい脳」の大脳新皮質に及んでゆく。大脳新皮質の中でも前頭連合野、頭頂連合野、及び側頭連合野は一番成熟が遅い。だいたい、高校を卒業するか大学新入生の頃でないとこの部分は最も成熟した域には達しない。そのため、この部分を大脳新・新皮質と呼ぶことがあるくらいである。大学時代というのは、まさにこのような高度の精神活動能力の完成期に相当する。青年は突然目の前に開かれる高度の精神世界に感激し、人生を深く思索するようになり、一部の青年は哲学を好むようになる。

 前頭連合野は、推理、創造、計画、評価、自制心などの高次の精神的機能に関わっており、大脳辺縁系の、怒り、悲しみ、恐怖などの情動に対して理性的抑制を行っている。したがって、この部位の成熟が遅れたりに損傷があったりすると、すべてのことに我慢がきかなくなり、自発性や意欲がなくなる。また、計画的にものごとを行なったり,一連の行動を順序よく行うことが困難になる。

 したがって、人間の高度な判断力、理解力、倫理観に訴える説得は、まだこれらの連合野におけるニューロンの有髄化、つまり成熟化が完成していない高校・中学・小学校の生徒に行っても、無駄とまではいわないが、効果は期待するほど大きくはないといって良い。小中学生と「徹底的に話し合うべきである」などという戦術は、相手の子供たちの能力がまだそこまで発達していないのだから、あまり効果がないと知るべきである。高校の終わり頃、及び大学生くらいの年代になれば「徹底的に話し合う」のは極めて有効である。

石原慎太郎のエッセイ

 石原慎太郎東京都知事に「日本よ」というエッセイ2がある。父親の責任についての論議であるから必ずしも体罰論ではないが、本テーマにも共通しているところがあり、共感するので引用しておく。

「動物行動学者の権威コンラッド・ローレンツは、『幼い頃肉体的な苦痛を味わったことのないような子供は、成長して必ず不幸な人間になる』といっているが、それは人間を含めた動物全体の生存に関わる原理であって人間の親だけが子供にそれを強いることを怠るということが許される訳がない。ある年齢に達した子供を、親が強く叱るということは子供にとっては心外だろうと実は、我慢について教える慈悲に近い本当の愛に他ならない。賀川豊彦は、『子供には大人から叱られる権利がある』と記している。キェルケゴールは、『子供が受くべき、最初の感謝すべき教訓、それは両親よりの平手打ちだ』ともいっている。(中略)叱られるということは我慢を強いることであって、我慢を重ねることの出来ぬ子供は心身ともに耐性を欠き、自分をコントロール出来ずに、すぐに切れたり崩れてしまう。」

海外諸国の例

 英国は伝統的に体罰を容認している。ディケンズの『デビッド・カッパーフィールド』その他の多くの文学作品において、子供時代に教師から手を鞭で打たれる場面が描写されている。コモンウェルズ諸国も、英国の影響で容認する国が多い。米国は約30州が容認している。これに対し英国以外のヨーロッパ諸国、イスラエル、日本が禁止している。

第3章 体罰の問題点とその克服

 体罰の悪いところを列挙してみると次の通りである。すなわち、多くの場合、立場の弱い相手に向けられること、本当は教師の感情的な行動であるにもかかわらず、それが「愛の鞭」という美名で隠されることが多いこと、逆効果となる場合が多いこと、子供の人格の尊厳が著しく傷つけられること、相互の信頼と尊敬を基調とする教育の根本理念に反すること、などが挙げられる。中には体罰を受けた子供が自殺をしてしまったりして大事になったこともある。

 これらの問題点はいずれも真実であり、筆者もそれを否定するものではない。体罰は必要な時に、必要な限度で与えるべきものであるが、その実行は容易なものではない。結局は、体罰の効用と体罰の問題点のバランスで考えなくてはならない。体罰を効果的に行うことがどうしても必要であるとなったら、これらの問題点を克服するノウハウを蓄積すべきなのである。

問題点を克服するノウハウ

 ところが、日本では体罰は一律に禁止されてしまっているから、「教育的な体罰の与え方」とか「どんな時に体罰を与えるべきか」、「どんな時には体罰は絶対に避けるべきか」、「体罰を行った後の安全配慮義務」などに関する研究会や研修などは全く行われていない。したがって教育の現場にはそういうノウハウの蓄積は全くない。

 学校の教師たちは、他の職場におけるサラリーマンに比べて極めて研究に熱心であるといってよいだろう。定期的に、かつ頻繁に研修のスケジュールが正式の勤務の中に組み込まれているし、極めて熱心に教師も参加している。ところが体罰についてのケーススタディや技術についての研修は全く行なわれていない。体罰は一律に非合法であるからだ。

 逆説的ではあるが,体罰を容認して初めて体罰の問題点の克服と、その効果的な活用の研究ができるのだ。教師にもノウハウが身につく。そろそろ、学校教育法第11条からは「体罰を加えることはできない」という文言を削除するか、少なくとも「不適切な体罰を加えることはできない」と表現を改めるべきであろう。

第4章 体罰の法環境

国家賠償法には次の通りの規定がある。

第1条
1 国又は公共団体の公権力の行使に当る公務員が、その職務を行うについて、故意又は過失によって違法に他人に損害を加えたときは、国又は公共団体が、これを賠償する責に任ずる。
2 前項の場合において、公務員に故意又は重大な過失があったときは、国又は公共団体は、その公務員に対して求償権を有する。

 体罰を行った教師に対しては免職、停職、減給、戒告などの行政処分が課されることがある。さらに民事責任として損害賠償請求の追求を受けることになるが、その根拠となるのは冒頭に掲げた学校教育法第11条、民法関連では第709条の「不法行為」、刑法関連では第208条、第204条、第205条の「暴行、傷害、傷害致死」である。刑事責任を問われるのは、上の損害賠償責任の根拠と同じ刑法の条項に基づいて、懲役、罰金、拘留、科料などの刑事罰が課せられる。文部科学省の発表によると、体罰を事由として懲戒処分、訓告・諭旨免職を含めた処分に処せられた教職員の総数は、1998年及び99年にそれぞれ497名、501名であった。

判例
 幾つかの判例を見てみよう。いずれも教育界においては有名な事件ばかりである。

●東京都東久留米市中央中学校事件

 次の例は、口のきき方が悪かった女生徒に対する体罰事件の判決からの抜粋である。事実問題は次の通りであった。

 「被告は、平成6年11月14日午前9時10分ころ、中央中2年2組の教室において、同日の第一時限の道徳の時間に行われた同月4、5日開催の文化発表会のまとめの授業中に、原告ら6名に対し、右(原文縦書き)文化発表会において行ったアンケートの集計を行うよう指示したところ、原告は、被告に対して、「集計しなくていいって言ったじゃない。自分の言ったことに責任もてよ」と反論した。

 被告は、同原告の言葉に激昂し、同原告に対し、大声で「もう一回言ってみろ」と怒鳴り、同原告が座っている机を蹴った後、右手平手で同原告の左頬を一回殴った。同原告は、これに対し、被告を凝視したところ、同被告は、同原告に対して「なんだ、その顔は」と言って、更に右手平手で、同原告の左頬を一回殴り、髪の毛を手で鷲づかみに引っ張った。これらの暴行により、同原告は特に怪我を負わなかったが、同原告の衣服には引っ張られて抜けた後であるような髪の毛が数本ついていた。」

 これに対して判決は、「教師と生徒という立場からも、また体力的にも、明らかに優位な立場にある教師による授業時間内の感情に任せた生徒に対する暴行であり、およそ教育というに値しない行為である」と断じ、かつ「原告は右体罰によって大きな精神的苦痛を被ったことが認められる」と言っている。そして東京都および東久留米市に連帯して50万円を支払うように命じた。なお、国家賠償法の趣旨からいって当該公務員個人は直接被害者に損害賠償責任を負うものではないが、雇い主である都は、当該教師に対して求償権を行使することになる。

 裁判では、さすがに原告による中学の掲示板に謝罪文を掲載する要求、教師と成績評価の変更請求、及び父親への損害賠償請求は斥けられた。しかし、原告側の全面的勝訴である。この判決が全国の教育の現場に与えた影響は大きかった。

 現場の教育は、こういうことで成り立つものであろうか。この女生徒は教室で先生に、そのような口をきいてもかまわないと裁判所から保証を受け取ったのであるが、それで有益な教育的効果を得られたのだろうか。それで彼女の社会人としての将来は幸福なのだろうか。裁判所は法を行ったのであって、教育を行ったのではないことに留意しなければならない。

●兵庫県龍野市立揖西西小学校事件

 次の例は、小学校6年生が自殺してしまった悲惨な例である。判決によると、事案の概要は次の通りである。(固有名詞を「生徒」に変更)「龍野市立揖西西小学校6年生であった生徒が、平成6年9月9日に担任教師から殴打され、同日中に自宅付近の裏山で首を吊って死亡しているのが発見された。生徒の両親である原告らが、生徒は担任教師による本件殴打行為が引き金となって自殺したものであると主張して、国家賠償法1条1項に基づいて被告龍野市に対して損害賠償を求めた事件である。

 本事件には次の三つの争点があったが、裁判所の判断はそれぞれ次のとおりであった。

 (1)生徒の自殺と本件殴打行為との間に事実的因果関係があるかについては、「自殺が本件殴打行為に極めて接着した時点で(約1時間後)なされていること、本件殴打行為の他に生徒の自殺の動機となり得る事情が存在しないことなどを総合すると、生徒は本件殴打行為が引き金となって自殺したものと推認することができる」といっている。

 (2)生徒の自殺について学校側の責任原因の存否および相当因果関係の有無については、「生徒の自殺による死亡と本件殴打行為との間には相当因果関係があるというべきである」と述べ、さらに「担任教師には、本件殴打行為によって生徒の心身に及ぼした悪影響を除去する上で過失があったことは否定しがたい。そして、担任教師において生徒の精神的衝撃を緩和する努力をしておれば、生徒の自殺を防止することのできた蓋然性の高いことにかんがみれば、右の安全配慮義務違反と生徒の自殺による死亡との間にも相当因果関係があるというべきである」と指摘した。

 (3)原告らの損害の有無、数額については、「本件で、生徒に対し、生き続けるよう期待することが生徒にとって酷であったとはいえず、また現に期待されていたというべきであるから、損害の公平な分担という見地から、自殺を選択してしまったこと自体について、生徒が一定の責任を負うべきものとされるのはやむを得ない。したがって、損害の拡大に寄与した生徒の心因的要因(意思的関与の程度)に応じて、その損害額の5割を減額するのが相当である」と述べ、結局請求額の半額である約1900万円及び訴訟費用の半額を支払うように命じた。

 上記(2)の争点である教師の安全配慮義務違反の問題は極めて重要である。逆説的な言い方になるが、一律な体罰を禁止しているが故にこのような教育ノウハウが全く蓄積されていないのだ。教師とて人の子であるから、感情に押し流されてしまうこともあるし、過失で手が出てしまうこともあるだろう。その時にどのような行動を取るかが重要なのである。

●茨城県水戸五中事件

 体罰容認論的なニュアンスを持つ判例もある。1981年の水戸五中事件として知られる有名な例である。この事件でも、中学2年生がちょっとふざけたことを理由に女教師から体罰を加えられ、8日後に脳内出血を起こして死亡してしまった。ただし脳内出血の原因は外因性のものであるか否かは不明である。もっとも体罰といっても判決によれば「平手および軽く握った右手の拳で頭部を数回軽くたたいたという程度であり、口頭によるそれ(注意)と同一視してよい程度の軽微な身体的侵害にとどまっているので、正当な懲戒権の行使の範囲である」というものである。

 一審においては有罪とされたが、東京高裁は体罰と死亡の間の因果関係は認められないとして、原判決を破棄して無罪を言い渡した。判決文3では、体罰について次のように述べている。

「教育上必要な注意を与えるという自覚の上に立ち、また生徒に対してとった行動自体も教師としての節度を著しく逸脱したものとは認められない本件のような場合には、心のなかにわずかに混在した不快の感情の起伏を捕らえ、それを理由にして教育的意図の存在を否定したり、不当に過小評価したりすることは許されないところであるといわなければならない」と述べ、違法性の問題については「教師が生徒を励ましたり、注意したりするときに肩や背中などを軽くたたく程度の身体的接触(スキンシップ)による方法が相互の親近感ないしは一体感を醸成させる効果をもたらすのと同様に、生徒の好ましからざる行状についてたしなめたり、警告したり、叱責したりするときに、単なる身体的接触よりもやや強度の外的刺激(有形力の行使)を生徒の身体に与えることが、注意事項のゆるがせにできない重大さを生徒に強く意識させると共に、教師の生活指導における毅然たる姿勢・考え方ないしは教育的熱意を相手方に感得させることになって、教育上肝要な注意換気行為ないしは覚醒行為として機能し、効果があることも明らかであるから、教育作用をしてその本来の機能と効果を教育の場で十分に発揮させるためには、懲戒の方法・形態としては単なる口頭の説教のみにとどまることなく、そのような方法・形態の懲戒によるだけでは微温的に過ぎて感銘力に欠け、生徒に訴える力に乏しいと認められるときは、教師は必要に応じ生徒に対し一定の限度内で有形力を行使することも許されてよい場合があることを認めるのでなければ、教育内容はいたずらに硬直化し、血の通わない形式的なものに堕して、実効的な生きた教育活動が阻害され、ないしは不可能になる虞れがあることも、これまた否定することができない」と述べた。

 さらに次のように述べて、現場の教師には教育の実施に必要な裁量権が認められてしかるべきであると述べている。

 「同人の本件程度の悪ふざけに対して直ちにその場で機を失することなく前示のような懲戒行為に出た被告人のやり方が生徒に対する生活指導として唯一・最善の方法・形態のものであったか、他にもっと適切な対処の仕方はなかったかについては、必ずしも疑問の余地がないではないが、本来、どのような方法・形態の懲戒のやり方を選ぶかは、平素から生徒に接してその性格、行状、長所・短所等を知り、その正当ぶりを観察している教師が生徒の当該行為に対する処置として適切だと判断して決定するところに任せるのが相当であり、その決定したところが社会通念上著しく妥当を欠くと認められる場合を除いては、教師の自由裁量権によって決すべき範囲内の属する事項と解すべきであるから、仮にその選択した懲戒の方法・形態が生活指導のやり方として唯一・最善のものであったとはいえない場合であったとしても、被告人がとった本件行動の懲戒行為としての当否ないしはその是非の問題については、裁判所としては評価・判断の限りではない。」

 つまり、体罰が必ずしも最善の選択であったかどうかは必ずしも明確ではないが、それは現場の教師の裁量権の範囲内であるから、裁判所が評価・判断できる問題ではないというものである。この教師に裁量権を認めた点について、いわゆる進歩的教師や研究者たちから、「教育能力・技術のない教師が野放しになる論理である」との猛烈な批判が沸き起こった4。しかし、それはとんでもない間違いである。裁量権を認めてもらう資格のない教師がいるからといって、裁量権そのものを否定するのでは本末転倒である。教師の教育の方法論に裁量権が一切認められないのであれば、教育能力・技術があっても十分にこれを発揮することができないことになる。教師の個々の生徒に対する教育の方法論に、個別的かつ専門性のあることを認めればこその裁量権である。資格のない教師は、裁量権を制限するどころか辞めていただかないと困るのだ。

 ただ、その裁量権の範囲に、違法性の在る体罰までも含めるわけにはゆかないから、結局、問題は当該体罰の違法性の問題に還元される。この判決を下した裁判長は、「合法的な体罰もある」と言っているわけであるから、その範囲内であれば体罰を選択することも裁量権の範囲内であるといっておかしくない。

 こうして見てくると、体罰に関する法的環境は必ずしも安定したものではない。「あらゆる身体的侵害が体罰であり、したがって違法である」という考え方もあるし、「正当な懲戒権の範囲にある体罰もある」という考え方も成り立っている。しかし、子供を不当な虐待から守り、しかも教育的効果を期待できる「正しい体罰」についてのノウハウがないままに、現実には体罰が野放しに行われているのが現実である。逆説的な言い方になるが、体罰を解禁して、そのかわりに正当な懲戒権の行使以外のものは厳重に禁止し、体罰の与え方についてのノウハウを蓄積すべきである。さもないと、不当な体罰は根絶することがないだろう。繰り返しになるが、「一律な」体罰禁止を廃止しない限り「不適切な」体罰はなくならない。

体罰ではない行為

 最後に念のために付け加えるが、日本弁護士連合では、次のような場合は体罰とはいわないと言っている。「児童、生徒が『いじめ』など生徒間で暴力をふるっているとき、また教師に暴力をふるい、或いは学校建物、器物を暴力で損壊しているときなどで、これを実力で制止する行為は体罰ではない。しかし、『制止』の程度をこえてその機会に『なぐる』『ける』等の行為に及べば体罰となる。但しこの場合には、正当防衛、緊急避難の成立の余地があるのでその考慮が必要となる。

1 参照先リンク切れ

2 産経新聞 2000.7.3朝刊

3 水戸五中事件判決全文

4 「学校教育の現状と法律学の課題」 鹿児島大学法政策学科采女研究室

5  『子どもの人権救済の手引』、日本弁護士連合、1987

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